2015/01/04

【雑談】戯言あざりって、何?

存在証明を行う

戯言あざり(ざれごとあざり)、これは芸名である。本名は徳本和広、戸籍謄本に登録されている僕の名称で、世界で僕を認識するための唯一の名詞、そして僕の大好きな唯一の家族の母がつけてくれた名前(下だけだけど)だ。肩書きをつけるならば、アコースティックギターで弾き語り、所謂シンガーソングライターである。
さて、この中二病(あまりしっくりこない言い回し)感たっぷりの名前には、ちゃんと意味がある。なぜ意味をつけたのかと言えば、自分に存在意義を与えたかったからだと記憶している。
人に生まれてきた意味はない、これは誰しもが平等に与えられた残酷な条件だ。物心ついたときからオナニーとサッカーしかしてこなかった僕にとって、自分の役割はゴールを守ることだと思っていたし、たくさん射精して猛進してくるフォワードをつきとばすことだと思っていた。大学に入るまで、ずっとそれが僕の存在意義だった。ある種の束縛環境から一気に広大な大海原に投げ出された18歳大学生は、自分の存在意義の確立に必死だった。海外ボランティア活動をするサークルをやってみたり、地元(墨田区)の地域活性化団体を立ち上げてみたり、非行少年の保護更生活動に参加してみたり、色々なことに手を出して、それなりに没頭してみた。人に「あなたは何のために生きてるの」と問うてみれば、大概は「誰かを幸せにするために」「貧困をなくすために」「日本を豊かにするために」と答えた。それらのスケール感やジャンルは多様である、しかし基本的には善であるということがベースにあったように思う。誰もが聖人君子のように、光の部分を強く強く主張していて、そのうしろにある影を一切無視したような不気味なコントラストが、僕には耐えられなかった。だから僕は全てを辞めてしまった。そこからが戯言あざりの始まりだったように、今にして思う。
いい人であろうと、いい行いをしようとする自分が、どこか滑稽で薄ら寒く感じてしまう。これを言うと「俺もそんな時期があった。でも今は〜〜〜」みたいな達観された諸先輩方の有り難いお言葉が返ってくることが多々あった。僕はどうも納得がいかない。そのモヤモヤした感情をどうすっきりさせたのか、明確に答えてくれる人は誰もいなくて、皆、抜群の論理的飛躍をかまして自分の存在意義にたどり着き、見つけた気になっているように思えた。まぁきっと見つけた気になるしか他ないのだと思う、存在意義なんて難題なテーマ考えるだけ無駄なのかもしれない。それでも僕はより真に近づきたくて、今までの鬱陶しい考え感情を全部真っ白にして、考えて考えて実行してみた。それはそれはあまり安直な答えで、浅はかだ。陽がだめなら陰でいこうと、そういうわけである。
ようやく戯言あざりの由来にたどり着く。
「あざり」とはサンスクリットで軌範の意味で、お弟子さん達に法を教授する師匠的な意味である。それの名字が戯言であるからして、くだらないこと教え説く厄介なおっさんということになる、戯言あざりとは、そういうキャラ設定なのだ。で、彼の存在意義は「国家を転覆する」こと。彼の視点から繰り出される社会風刺(たわごと)を音楽にのせて世の人に説いていくことで、退廃的なムードを作り、ゆくゆくは国家を転覆させるような堕落した心理状況に市民を脅かしていくことを存在意義とし、活動していく。これが戯言あざりの全てである。


なぜこのようなキャラ設定、存在意義を見いだしたのか、自分でもよくわかってはいない。でも、幾分か心地がよい。貧困をなくすとか、誰かの笑顔を見たいとか、チープな言葉を並べるよりも大分ましな気分になれる。そしてこれにとても価値があるように思えることとして、誰もまだやったことのないこと(自分の知る限り)である、という点にある。これまでに国家転覆を企んだ組織個人というのはたくさん存在した。ムッソリーニ然りヒットラー然り、日本でいえばオウム真理教なんかがわかりやすいだろうか。それぞれの信念、思想に基づいて、現体制に反旗を翻すために奔走していた。そして彼らは見事に形勢逆転することに成功した(オウムはだめだった)。しかし、彼らは公に「国家を転覆する」とは一言も言っていない。あくまでも今よりももっといい世界に、よりよい社会にと明言してやったことである。ここに戯言あざりとの大きな違いがある。そして何よりも彼らの作り上げた社会・共同体というものはことごとく失敗に終わっている。それは歴史が証明していることだ。多くの死と痛みと悲しみを残して、去っていった。僕がやりたいことは、そういうことではない。痛いのも悲しいのも、ごめんだ。僕のみせたい国家転覆はそういうことではない。「人間は残酷だ。世界は終わっている」これはきっと、多くの人がもうすでにわかっていて、それでも救いの光を見いだしたくて、影に目を伏せてあがきもがいている。僕はそれに一言二言三言もの申したい感じなのだ。いいこときれいなことで、あることないこと全部一緒くたに塗り固めた不気味な社会に楯突いてみたいのだ。そんな世の中にびっちりきったない影を汚れをドロドロした部分を、存分に公開していこうと思うのだ。こんなことをして何になるのだろうか。僕もわからない。ある種の思考実験だと思って、温かい目で見守って頂きたい、戯言あざりですどうぞよろしく。